どう死ぬのか、どう見送るのか

先日、突然かかってきた電話は、今医者からするように言われている医療行為をするべきか否かについての相談でした。
長年介護してきた母親、年齢は90歳。だんだんと弱ってきて食事が入らなくなってきた。嚥下は何とか可能だけど本人がこれ以上要らないと。認知面はわりとしっかりしていてコミュニケーションは十分可能。
施設から入院して最初に言われたのは胃瘻造設。悩んでいると、下肢の動脈が閉塞しているから緊急で血管内治療をすると。その同意書を書くように病院に呼ばれて行くと血管内治療では無理だから下肢を切断しなければならないと説明され、手術をしなければ命の保証はできないと言われたので承諾してきたのだけれど、本当にそれで良かったのか?というもの。
一人の医者としてこの治療の選択の理屈はわかるのですが、その前に一人の人間としてこの「無理矢理」命を延ばして行くような治療の選択が本当に正しいと言い切れるのかと感じざるを得ません。「命の保証をしない」という言葉は本人や家族の選択肢を著しく制限する表現です。それ以外の選択肢を選ぶことは「あなたのせいで死んだ」という意味ではないかとかんじられるのです。そもそもたかが一人の医者に「命の保証」なんてものができるのかとも思います。
寝たきりとなり、食事が摂れなくなり、さらに下肢を切断されて、栄養剤を胃瘻から注入して生きることだけが「正しい生き方」なのでしょうか。そうでない選択肢を選ぶことを「見殺し」にしているかのように言うことに違和感を感じます。
一晩中「切断することを承諾した」自分の判断が正しかったのか悩み続けての電話だったのでしょう。患者さんのために一番良いことはなんだと思うのか、どういう死に方をしたいのかということは、どういう人生を送ってきたのかということに繋がっているのでは?という話を約一時間。一生懸命考えて決めた決断は胃瘻をしてもしなくても、切断をしてもしなくても、すべてが「正しい」決断なんだと。。。
どういう結論でどういう選択をしたのかは聞いていませんが、今日、昼過ぎにお亡くなりになったという話が伝わってきました。長い間介護してきた娘さんの決断が一番正しい選択であったと信じています。